ボクナリ vol.1 自己紹介 高校時代編

こんにちは、GxPの杉山です。
今回「ボクナリ」と称して僕が普段どういうことを考えているかの連載の機会をいただきました。

この連載を通じて”ボクナリ”の価値観を皆さんと共有しやすいように、まずは僕が今までどういう人生を歩んできたのか、「高校時代編」と「大学時代編」で分けて自己紹介したいと思います。

高校時代

学校に行かなくなる

早速ですが、せっかく受かった公立の高校に3か月ちょっとで行かなくなりました笑
理由はいろいろありますが、毎日将来役に立つかもわからない勉強をすることが嫌になったというのがあります。

僕は役に立たないことはしたくありません。よく、人生何が役に立つかわからない。今役に立たないと思っても、時間がたってから思いもしないところで役に立つのだ。という話を聞きますが、僕はその考えが嫌いです。なぜならそれはただの「運」だからです。

ここでいう運とは、当人が確信をもって予期していなかった良いこと。です。
そして僕は人生の中で役に立つこと、立たないことを運頼みにしたくないと考えています。
つまり、確信をもって役に立つと思っていることだけを学びたいのです。
そうしたい場合に取ることのできる行動は2つありますね。

  1. 役に立たないと思うことは、そもそもしない。
  2. 役に立たないと思うことは、環境を変えて役に立つようにする。

当時の僕はそのうえで前者を選んだようです。
人生は運ゲーですが、全部運では決まりません。どこまでを運ととらえるのかがその人の人生観になると思います。

高校1年の夏に行ったイタリアのどこか

通信制の学校へ

さて、学校に行かなくなって半年、いよいよ学校に籍を置けなくなる状況にあった僕は選択を迫られました。

  1. 学校に戻り、王道を行く。
  2. 学校に行かず、覇道を歩む。

現実的に考えて、学校に行かないと高校の卒業資格を得られないため、大学に行けなくなります。また、高校の卒業資格がないと就活もなかなか厳しいでしょう。

しかし、学校に行けばまたあの虚無な毎日を過ごすことになります。

そこで「学校には所属するが、学校には行かない。」という第3の選択肢を考えます。
面白いことに、そういうものも探せばあるわけですね。そう、通信制高校です。

通信制高校は日本の高校の割合としては5%に満たないくらい少ないものですが、当時そのなかでも話題に上がる高校がありました。N高等学校(通称 N高)です。

N高はニコニコ動画で有名な角川ドワンゴが学校法人として開いた学校です。
僕はその1期生として転校することにしました。

高校時代はよく地元の海に通っていたらしい

PHH

全日制の学校では午前8時~夕方5時くらいまで勉学に励んだ後、部活や習い事などをするのではないでしょうか?N高では真の意味で自分のペースとバランスで勉学に励むことができます。実際、僕は1日のうち1時間にも満たない時間での学校の作業だけで単位を取ることができました。

では浮いた時間で何をしたのかというと、N高と連携して企業の即戦力になりうる人材を作るためのプログラミング教室、Programing High Level High School(通称 PHH)に入りました。

PHHでは家から1時間半かかる中目黒の学校に行き、毎日朝10時から学校が閉まる夜10時までひたすらプログラミングをしていました。

カリキュラムとしては、最初3か月で大学4年間で学ぶであろうをプログラミング知識を叩き込まれ、そこからチームでのweb開発を行い、実際に企業の人を招いてプレゼン、後半は自分が突き詰めたい分野(僕は強化学習)について勉強していました。

正直最初はつらすぎました笑。i = i + 1; を数学的にとらえてしまい、意味不明で泣きそうになったり。入学してから最初20人余りいた人たちは最後には8人くらいまで減ってました。でもそれだけIT知識に可能性を感じていましたし、当時の年齢で即戦力になれるレベルの勉強できていることに誇りも持っていました。それが今の仕事にもつながっていると思います。

音大を目指す

PHHに在籍していたのは高校2年生の1年だけで、3年生からは進路について考えるようになりました。ここでの自分としての選択肢は以下の2つでした。

  1. 大学に入る。
  2. 就職する。

ただ当時の僕はまだ就職をしたいと思っていませんでした。PHHで得た知識は確かにレベルは高かったですが、年齢を考えなければ自分よりスキルが上の人は腐るほどいるし、そこに人材的な優位性というのは感じていなかったのです。

そして同時に、プログラミングは好きだが、卓越した才能はないとも感じていました。なので、大学でさらに勉強したとして、毛が生えた程度にしかならないことは想像に難くありませんでした。しかも高校時代に自分がやってきたことはほぼプログラミングだけで、大学に受かるほどの学力を持ち合わせていませんでした。

僕の好きな考え方に「100分の1×100分の1×100分の1=100万分の1の希少性」というのがあります。100人に1人が持つスキルを3つ持つことで100万分の1の人材となることができるというものです。自分としてはITの分野が100分の1(にはなってないにしても継続すればそうなるだけの知識レベルには到達している)として、次の100分の1を探そうと思ったわけです。そこで、考え付いたのが芸術でした。

当時AIが人間の仕事を奪うという話題がかなり世間に認知されるようになっていました。そのなかで、AIが奪うことのできない仕事で一番可能性を感じているのが芸術の分野です。仮にAIが台頭してきたとしても、少なくとも共存はできるだろうという考えで、芸術の100分の1を手に入れたくなったのでした。

幸い僕は幼少期からピアノも習っていましたし、作曲も個人の趣味として続けていました。そこにN高によって捻出された余りある時間を投与し、わずか3か月(決断したのが11月だったので)で音大受験の勉強をして入学の権利を手に入れたのでした。続きは大学時代編で。

当時の学習ノート
51